名前なんて、ただの記号だと思ってた。
一番二番と数えるのと同じで、どれがどれかをわかりやすくするための飾りでしかないって。
だからひとの名前を覚えることなんてなかったし、記憶にある数少ない名前は殺してやりたいくらいうざい名前くらいだ。
「結姫」
なのにあいつに名前を呼ばれると、どうしようもなく落ち着かない。
いつもにこにこへらへらして、犬みたいに周りをうろついて、あのネクロフィリアの変態と同じようなものだと思っていたのに。
なんで。
「なぁ結姫、そろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないか?」
風呂上がり、ソファでスマホをいじっていたら、タオルとドライヤーを持った柊那がそう言った。
「…はぁ?」
今更なにを言っているのか。思わず眉間に皺を寄せて聞き返す。
「だからさ、名前。そろそろ名前で呼んでほしいなって」
「名前なんて…お前で通じるんだから充分だろ」
「確かにふたりきりのときはそれでもわかるけどさ、俺以外のやつもいるときに困るだろ?」
水滴の滴る結姫の髪をタオルで包み、優しく水分を取りながら彼は問う。
「それとも俺の名前覚えてない?」
結姫は思わず口をつぐんだ。図星だからじゃない。それを否定することに抵抗があったからだ。
結姫の沈黙を肯定と捉えたのか、柊那や手を動かしながら続けた。
「俺の名前は久遠柊那。久遠は久しいに遠いって書いて、柊那は―――」
「うるさい」
むすっとした表情で柊那の言葉を遮る。
黙った彼から目を逸らし、小さな声で呟く。「……名前くらい覚えてる」
それならどうして名前で呼んでくれないのかと、柊那は問わなかった。代わりに「それならいいんだ」と微笑み、他愛もない話をひとりでぺらぺら喋りながら結姫の髪を乾かしてくれた。
(名前なんて…)
両親がまだ生きていた頃、母に名前の由来を尋ねたことがあった。しかし母はこちらを見もせずに「さぁ?」と返しただけだった。
父は母に訊けと言い、児童養護施設のおとなは女の子らしいかわいい名前だと言っていたが、キラキラネーム手前の変な名前だとしか思えない。
(苗字も名前も、あたしには綺麗すぎる)
ドライヤーとタオルを片付けた柊那がまた傍に来て、スマホ片手にじっと動かない結姫の頭を撫でた。
「結姫、そろそろ寝ようか」
その言葉に返事をすることなく、先にベッドに潜り込む。柊那は部屋の明かりを消してからその隣に横になると、いつものように優しい声で囁いた。
「おやすみ、結姫」
いつもなら返事はしない。けれど今日は何故か、ぽつりと呟いていた。
「…おやすみ、柊那」