まだ肌寒い春先のこと。特に用事があったわけではないが、なんとなくフォセットの屋敷を訪ねたときのはなし。
リビングに彼女の姿がなく、であれば図書室か自室か、と考え廊下に出た矢先、キッチンの方からなにか歌声のようなものが聞こえてきた。
まだ昼食には早いが、なにかつくっているのだろうか。そちらへ足を向けた。開きっぱなしのドアから覗くと、長い髪をポニーテールにしたフォセットがキッチンでなにか作業をしていた。いつもはハーフアップなので珍しさからつい眺めてしまったが、はっと我に返り声をかけようとしたとき、
「あ、ライ。いらっしゃい」
ライがなにか言うより早くフォセットが顔をあげてこちらを見た。中途半端に半開きになった口を一度閉ざし、再び開く。
「なにつくってるの?」
「ギモーヴ。もうほとんど終わるとこだけど」
「ギモーヴ?」
「果物のピューレにゼラチンを混ぜあわせて固めたお菓子。砂糖菓子だから結構甘いけど、コーヒーとか紅茶に合うんだよね」
へぇ、と気の抜けた声が出た。長方形のマシュマロのような塊にフォセットが包丁を丁寧に入れていく。包丁が引き抜かれる度に几帳面なくらいに綺麗なサイコロ状のそれが増えていく。
長方形の小箱に端がレース状に象られた紙を敷き、更にクッキングシートを重ねてからギモーヴを6個入れる。最後に箱にリボンをかけて完成らしい。それが2つほどできあがったところで声をかけた。
「手伝うよ」
お菓子作りはできなくても、このくらいの単純作業ならできる。そう思った。
フォセットは目を瞬かせてこちらを見つめ、そしてにっこりと笑ってありがとうと呟いた。
見様見真似でやってみると案外手こずった。箱に敷いた紙はギモーヴを入れるまで少し浮いていてずれるし、リボンはフォセットのものに比べると不格好だ。彼女が上手い理由が慣れだとわかっていても、少し落ちこみそうになる。
「ギモーヴの食感って、キスの感触に似てるんだって」
不意に聞こえた言葉に思わず手が止まった。フォセットを見つめるライの視線に気づいているのかいないのか、彼女は手を動かしながら続ける。
「あたしはそんな風に思ったことないけど、そういう風に言われることもあるらしいんだよね。美味しければなんでもいい気はするけど、やっぱりパティスリーとかはお菓子の意味にこだわってることもあるだろうし、意味からお菓子を選ぶひともいるかもしれないからね。一応覚えてるんだ」
「そ、そうなんだ」
単に思い出したから話してくれただけなのかもしれない。けれど何故今その話を? 何故自分に? 無駄に思考がぐるぐる回る。赤色とピンク色のギモーヴが、ちいさめのヘラとスプーンで持ち上げる度に細かく震える。
ギモーヴが残り10個程度になったところで箱がなくなった。最後の1箱をフォセットが終わらせて、彼女もふぅとひと息ついた。
「手伝ってくれてありがとう。ライのお陰で早く終わったよ」
そう、嬉しそうにころころ笑う。
「それはよかった、けど…こんなにたくさん、どこに持っていくの?」
「ん?…えっとね、ラルムのとことか、普段よく行くお店とか、あとはライのとことか」
「え、俺のところ?」
こくんと頷いて続ける。
「子どもたちにね、持っていってあげようと思って。子どもって甘いもの好きな子が多いでしょ。でもいつもクッキーとか日持ちする焼き菓子ばかり持って行ってるから、たまには生菓子もいいかなって」
優しい表情で話す彼女の姿に、気がつけばぽろっと零していた。「…ありがとう」
「ライこそ、いつもお疲れさま」
高身長な彼女がヒールを履くと目線がそう変わらなくなる。至近距離でぽんぽん頭を撫でられて、にわかに顔が熱くなった。
ふふ。優しい声音が鼓膜を揺らす。
一頻り頭を撫でたフォセットは困ったように眉を下げて菓子箱の山を振り返った。
「来て早々悪いんだけど、お菓子運ぶの手伝ってくれない? 流石にひとりじゃ運びきれないから」
断るはずのないお願いに首肯し、菓子箱がこけないようやや大きめの袋に詰めていく。それぞれ一袋ずつ抱えて街の中へ繰り出した。
フォセット行きつけの喫茶店、図書館、洋菓子店、服屋ーーーどこへ行っても彼女は歓迎されていた。それらで人数分の菓子箱を配り、雑談もそこそこに次の目的地へ歩く。その道中でも彼女は声をかけられていて、この街の発展に関わった存在であることを強く感じずにはいられなかった。
「ラルムのとこは明日持ってくから…あとはライのとこだけだね」
フォセットが鼻歌を歌いながら歩く度、長い黒と黄色の髪が揺れる。インナーカラーになっている部分は生まれつきなんだっけ、なんてぼんやり考えながらポニーテールの後をついていく。
「吸血鬼のお姉ちゃん!」
ライと子どもたちが生活する一軒家に到着するや否や、玄関先で遊んでいた子どもたちが元気いっぱい駆けてくる。あっという間にふたりを囲み、それなぁに? 甘い匂いがする! とはしゃいでいる。
「今日はギモーヴってお菓子を持ってきたよ。なまものだから早めに食べてね」
そう言いながら子ども一人ひとりに手渡ししていく。太陽みたいなきらきらした笑顔につられるように、子どもたちも笑顔で菓子箱を受け取ってきゃっきゃっと楽しそうに声をあげる。
配っている最中から聞こえていた、甘い! おいしい! の声が大きくなっていった。
街のひとや子どもたちと一人ひとり会話をしながら笑顔を振りまき、お菓子を手渡し、きっと疲れているはずなのに、菓子箱が全て手元からなくなってもフォセットは幸せそうに微笑んでいた。
「あたしがお菓子をつくるために材料を買うと、そのお店にお金が入るでしょ?」
突然語り出した内容がいまいち掴めず、思わず変な返しをしてしまう。「え、あ、うん」
「包装資材を買うと、そのお店にお金が入るでしょ。最新のお菓子の本を集めたら、本屋さんが潤うでしょ。あたしがお菓子をつくって配って…みんなただでお菓子が食べられて得した気分になってたらいいんだけど」
苦笑いをして続ける。
「あたしはあたしの周りのひとが美味しそうに食べてくれるところを見られて幸せになる。ひとのためみたいなこと言ってたけど…結局全部、自分のためなんだよね」
「そんなこと、」
「あたしわがままでお節介焼きだから、この街のひとのためになることがしたい。どんなにちいさいことでもいいからなにかしたいし、みんなには幸せでいてほしい」
俯いた顔に髪がかかり、風がフォセットの表情を隠してしまう。
なんと言えば正解なのかわからない。わからないなりになにか言おうとして口を開いたが、遮るようにフォセットが続けた。
「変な話してごめん。忘れて」
顔を上げたフォセットの笑顔は、いつもの優しくて屈託のないものだった。
「あ、そうだ、忘れないうちに渡しておくね」
そう言ってフォセットが差し出した手には、他の菓子箱よりも一回り大きな菓子箱があった。箱の色もピンク色ではなく淡くくすんだ緑色をしていた。
「…え、いいの?」
「勿論。…手伝ってくれたお礼にちょっとだけサービスしといたから」
受け取った箱をついまじまじと見てしまう。お礼を、と思って顔をあげた矢先、
「じゃあ、帰るね」
呟いて、彼女は颯爽と踵を返して歩き出した。
いつもより少し早歩きな背中を慌てて追いかけて、空の袋を抱えている肩を掴んだ。
「あ、ありがとう。大事に食べるから」
きょとんとしていた彼女だったが、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。
手を離すとヒールを軽やかに鳴らしながら去って行ってしまった。
フォセットが帰ったあとの自室で、
彼女からもらった箱のリボンを解いてふたをそっと開いた。
ふわっと砂糖の甘い香りとベリーの酸味のある匂いが広がる。
「ーーーキスの感触に似てるんだって」
彼女のことだから口紅でも塗っているのかもしれないけれど。
頭の中で、ほんのりと赤みがさした唇がいたずらっぽく動く。
少し力を加えるだけでほろほろ崩れてしまいそうなそれを軽く唇に当ててみる。しかし、それと似ているのかライにはわからなかった。