キーボードを叩く微かな音を切り裂くように、勢いよく玄関を開く音がした。そしてそれを大きく上回る音量で「ただいまー!」と高い声が響く。
ぱたぱた鳴る軽快な足音が水の部屋の扉を力いっぱい開ける。
「ご主人あのね、今日お空にへんなのあったの!」
水がおかえりを言うより先に、アカリは大きな耳をぴんと立てて彼に駆け寄る。おつかいの成果や玄関の鍵はちゃんと掛けたかなど、聞きたいことはいくつかあるが、アカリがあまりにもきらきらした目で見つめてくるので、水はつい口角を緩めて続きを促した。
「なんかね、いろんな色で、しゅーってなってるの。はしっこがふわーってしてて、いろんな色できれいだった!」
そう言いながら両腕をめいっぱい伸ばし、全身で「へんなの」がなにかを教えてくれる。その説明自体はあまりよくわからなかったが、空にあるいろんな色のものといえば大体検討はつく。
説明を終えたアカリはじっと水を見つめた。
「ご主人わかる?」
「多分。ちょっと待ってな」
水はキーボードを叩いて思い当たるものを表示する。アカリがそれを見やすいようにモニターを動かして、
「ほら、これだろ?」
画面を覗きこみ、アカリはまた大きな声をあげる。
「これ!ご主人これなぁに?」
「これは虹っていうんだよ。雨が降ったあとにできるんだ」
「にじ?なんで雨のあとにしかできないの?」
「それは…」
詳しく説明しようとして思わず口をつぐんだ。ついこの間、雲について詳しく説明して「ご主人のおはなしわかんない」と困った顔をされたばかりだった。どう説明したものかと少し考え、なるべく噛み砕いた言葉を選ぶ。
「この間空に水がある話はしただろ?それに太陽の光がたくさん跳ね返るからいろんな色に見えるんだ」
「じゃあお水おいといたらできる?」
「いや、置いておくだけじゃ無理だな。せめてホースとかで撒かないと」
「まいたらにじつくれる?さわれる?」
「触るのは無理じゃないか?光の屈折だし…それに水を撒いてつくっても、触ろうとしたらびしょ濡れになるぞ」
「ぬれるのやだ!」
眉間に皺を寄せ、いーっと口を引き結ぶ。猫又のアカリは水を浴びるのが嫌いなのだ。
アカリが体を動かす度にナイロン袋とレインコートががさがさ鳴る。そこでやっと水は気になっていたことをひとつずつ聞き始めた。
「アカリ、おつかいはちゃんとできたか?」
「できた!ちゃんとかってきた!」
ナイロン袋の口を広げて中身を見せてくれる。徳用ちゅるると猫用缶詰。ばっちりだ。そのまま袋を受け取り頭を撫でると、アカリは嬉しそうに喉を鳴らした。
「じゃあ次。靴はちゃんと並べてきたか?」
はっとした顔でアカリが硬直する。次の瞬間、
「してない!」
と叫んで走り出した。
その背中を追いかけると、玄関でうずくまって黄色い長靴を水のショートブーツの隣に並べていた。振り返って万歳をして、全身でできたを知らせてくれる。
「うん、OK。玄関の鍵は?」
「今かける!」
アカリが手を伸ばしてつまみを回す。かちゃんと鍵の掛かる音がした。小柄な彼女が背伸びをしてもチェーンには届かないので、水が一緒にいるときは代わりにするのが恒例になっている。
「よし、最後。レインコートはどこで脱ぐんだった?」
「げんかん!」
レインコートを脱ごうともぞもぞ動くので、万歳をさせて外しきれていないボタンを外してレインコートを脱がせてやる。少し濡れているそれをハンガーに掛ける流れで傘立てを見ると、傘はとじられてはいないもののちゃんと元の場所に収まっていた。
あまり口うるさく言っても可哀想なので傘には触れずによしと呟く。
「完璧だ。おやつにするから手を洗っておいで」
「ちゅるるー!」
元気のいい返事をして駆けていく後ろ姿を見送りながら、とりあえず床拭くかと苦笑した。